萩原製造所について

萩原製造所について

About us
萩原製造所は、萩原株式会社の直営オンラインショップとして2021年6⽉にオープンしました。明治25年の創業当時から取り扱っているい草製品を中⼼に素材にこだわった製品づくりを⾏っています。
ロゴの「まるふ」は、かつて、歴代社⻑が継いできた「萩原賦⼀(ふいち)」の名前に由来するものですが、もう⼀つ、“ふ”すなわち“不”からくる、「ふたつとない」という意味も込められています。131年を経ても萩原のチャレンジ精神と唯⼀無⼆の存在でありたいと願う姿は変わりません。
ひとりひとりの暮らしにあった製品をお届けしたいと考えています。

い草をつなぐ萩原の歴史

History
紀元前

い草のバトン

岡山県のい草の歴史は古く、こんな言い伝えがあります。
第十四代沖哀天皇の時代、神功皇后(じんぐうこうごう)とともに、豪州熊襲(ごうしゅうくまそ)を討ちに九州へ赴き、都への帰途のおり、岡山県都窪郡庄村二子の二子山高鳥居にたちよられました。この際、あたりに繁栄していた野草の美しさに心を惹かれ、敷物を作らせたとのこと。この野草が、い草です。い草の敷物を「ござ」と呼ぶのは、「御座」から転じたものとされています。日本とい草の関わりで見渡せば、縄文時代、青森県十面沢遺跡から現代の畳目のように、い草が編まれた痕が見つかっています。縄文の人々も畳の心地よさを知っていたのではないでしょうか。遥か昔、紀元前から続く、い草のバトンを、私達は今、受け取っているのかもしれません。
1700年代

江⼾時代、名声を馳せた「早島表」

倉敷は、⾼梁川⽀流の⽔運で繁栄し、江⼾時代には、⼀⼤商業地として栄えました。
⼀⽅、⾼梁川河⼝では新⽥⼲拓が進み、⽊綿栽培や織物業が盛んに。原料を⽣産し、加⼯することで⾼い付加価値を⽣み出す商業的農業が発展します。⼲拓⽔⽥地域で栽培されたのが、い草でした。豊かな⼲拓地の⼟壌と、晴天の多い気候、良質ない草を育む条件に恵まれたこの地から、多くの畳表やござなどが⽣まれました。特に都窪郡早島町⼀帯で⽣産された畳表は、「早島表」と呼ばれ、全国的な名声を得ました。稲以外の作付けは厳しく制限された江⼾時代。農家は⽶との⼆⽑作でい草を育て、家内⼯業として畳表を織ることで、新たな価値を⽣み出しました。農・⼯・商、それぞれの「⽣み出す⼒」が伝統と進取の気⾵に富む今の倉敷にも、つながっています。
1878

倉敷に咲いた幻の花ござ

緻密な織りに美しい図柄。ござの常識を打ち破る花ござ、「錦莞莚(きんかんえん)」が誕生したのは、1878年のことでした。開発したのは、磯崎眠亀(いそざきみんき)。織物業を営む磯崎家に生まれた眠亀は、開発精神に富んだ人物でした。そんな眠亀を花ござの開発に向かわせたのは、武家社会の終焉による畳表産業の斜陽でした。畳表に代わる敷物産業を起こそうと、洋館で使用されるカーペットに注目。高価な舶来品の物まねではなく、地元特産のい草で、普及性のある敷物の製作を思い立ちます。家業が傾きながらも研究に没頭し、情熱を持ち続けた眠亀。ついに誕生した花ござは、後に日本の主力輸出品に成長し、1900年代初頭には、カーペット産業への打撃を恐れたアメリカが、40~80%の高関税をかけたほどでした。時代は移り変わり、今では幻とされる「錦莞莚」。けれど、その開発精神と技術の土壌は、今も倉敷に息づいています。
1892

ふたつとないもの「萩原賦⼀商店」創業

創業明治25年。磯崎眠亀が開発し、当時岡山で盛んだったアメリカ向けの輸出品、「花莚(花ござ)」の製造を主体として、「萩原賦一商店」は創業。以来、戦前・戦後の時代のうねりのなかを、い草田と共に、歩んできました。創業以来使用しているものに「まるふ」の商標があります。かつて、歴代社長が継いできた「萩原賦一(ふいち)」の名前に由来するものですが、もう一つ、“ふ”すなわち“不”からくる、「ふたつとない」という意味も込められています。 唯一無二の存在を目指す精神と、一丸となってやり遂げる姿勢。ひとくちに「ふたつとない」といっても、その為には、ひたすら「追求と反省」「品質管理」「市場の把握」「販売努力」を繰り返す、徹底した努力が求められます。大きなチャレンジ精神と、地道な努力を続ける精神。時代に合わせて進化する萩原株式会社の中で、唯一変わらない、基本の考え方が「まるふ」には込められています。
1972

倉敷から⼋代へ 九州萩原株式会社を設⽴

1960年代までは、⽇本最⼤のい草産地であった岡⼭県。い草の作付⾯積は、1960年は3,700haで全国1位、1964年には5,500haと最⾼を記録しました。⼀⽅で、⾼度経済成⻑期により⽔島⼯業地帯が発展したことで公害が発⽣。雇⽤も⽔島へ流れ、い草栽培を⾏う農家が減少していきました。また、都市化の進⾏により市街地が拡⼤し農地が減少した影響もあり、岡⼭県のい草の作付⾯積は急速に減っていきました。そんな中、熊本県が1968年にい草の作付⾯積が全国1位(3,880ha)となり、い草の主産地は熊本県⼋代地⽅へと移っていきました。 このままではい草事業の継続が困難になると、1972年熊本県⼋代市に九州萩原株式会社(現九州⽀店)を設⽴。それから30年以上、2015年に萩原の倉敷い草⽥が廃業したあと、萩原の国産い草の中⼼は熊本県産となりました。
1972

海を渡った倉敷のい草

その商品価値から「青いダイヤモンド」とも言われた、い草。このい草が、倉敷のノウハウと共に海を渡りはじめたのは、1960年代。時代の波に押され、一大産地だった倉敷のい草田の衰退をうけ、「このままでは、い草を十分に供給できなくなる」、と危機感を覚えてのことでした。韓国や台湾での作付けを試みる中、1972年に日本と中国の国交が回復。萩原は、戦前に倉敷の業者がい草を栽培していたという記録だけを頼りに、意を決し中国に渡航。「青いダイヤモンド」を育てる日中双方の歩みが始まりました。膨大な労力と費用をかけても、思うように収穫できなかった最初の5年。生活環境も厳しいなか、挫けそうになる若いメンバーを、励まし、粘り強く栽培を続けたのは、倉敷のい草農家に育った当社の社員でした。倉敷のい草の技術を残したいという思いもありました。中国のい草田には、そうした倉敷の農家の努力が息づいています。
2000年代

灯火をつなぐ

「職人への注文が安定せんと、ええもんはできんぞ」、生産部の新人が先輩から言われること。「去年買って良かったから、今年もいただくわ」と、お客様に喜んでもらえること。「職人さんのため」は、「お客様のため」に、つながると私達は考えます。高度な技術を持つ萩原の職人さん達。その技術が十分に発揮されるよう、発注を安定させ、職人さんとフラットな関係をつくること、その高度な技術と、お客様の声をつなぐことが私たちの仕事です。例えば、百畳もの大広間に敷き詰めた畳のムラのない美しさや、自宅の畳で家族と寛ぐときの嬉しさ、いただいたお客様からの喜びの声をつなぎ、より良いものを作る努力を続けています。萩原が年に数回行う手織り体験イベントで、い草製品の良さを知り、感動してくださる方も多くいらっしゃいます。良いものを作れば喜びの声が生まれ、その声がさらに、良いものを生み出す。い草を巡る灯火を未来へつなぐ、萩原の仕事です。
2021

萩原製造所オープン

紀元前から続くい草のバトンをつないでいきたい。そんな思いから、2021年6月に直営オンラインショップ「萩原製造所」をオープンしました。
い草は、畳の原材料として広くし知られており、日本の気候・風土にあった様々な機能をもっています。しかし、ライフスタイルの変化とともに日本国内のい草の作付面積は年々減少、畳表の生産量も国産、輸入品ともに減少傾向が続いています。
萩原製造所では、日本人の生活において、すたれることなく残り続けた「い草」の魅力を、今の暮らしにフィットするかたちで伝えることで未来へとバトンをつないでいきたいと考えています。製造から販売まで一貫して取り組んでいる萩原だからこそ、い草製品づくりの伝統を継承するとともに、今の暮らしにフィットした製品をお届けできると信じています。